STYLING/1990
「失われた庭」で・・谷神健二の「失われた庭」で

 

ART


The Intermittent Art

谷神健二の「失われた庭」で

田中秋男

Photos by AOKI Toshi

 

 一見プリミティーフに見える谷
神健二の世界はその実きわめ
て技巧的である。


 それは氏の作品の中の少年
少女の奇怪に硬直したさまざま
な姿態を見ればわかる。彼らは
間款的だ、まるで私達のオルガ
スムスが間款的であるように。


 また彼らの表情が一様に忘
我的であるのも氏の作品世界
を尋常ならざるものにしてい
る。


 思うに、氏の作品ひとつひと
つが私には強い既視感を抱か
せる。それらはかつて私が記憶
したひとつひとつのコトのように
も思われるし、またこれから記
憶するだろうコトのようにも思わ
れるのだ。


 見る事が私の記憶であるよう
な経験一氏を語る事は私を語
る事になりそうだ。ま、そんな事
はこの際、どうでも良いことで
はあるが。


かつて、私達には至福の庭とも
云うべきもはや失なわれた場
所があって、そこでは淡い悪徳
や密やかな悦楽がある種のア
ナーキーさの中に交換されてい
た。


例えば私達は近所のお姉さん
やお兄さんに導かれて不思議
な逸楽の時を過した事がある
はずだ、篠竹の子のような幼い
ペニスを固くさせて、神妙な顔
つきで。

 あるいはまた、お姉さん達が
とある一室に閉じ籠もり、私は
憐りの部屋から彼女たちの奇
嬌な振る舞いを覗き見る。あの
後ろめたい感興が、今、氏の作
品を語るにあたって甦る。


 たしかに、氏のタブローは窃
視された世界のように見える。
なるはど、氏は覗くように描くの
だ。それをまた私達が覗くので
ある。


 見る事の後ろめたさ、この一
事でさえ、過剰によってむしろ
薄められ、拙速において貧しい
このヴイジュアル時代にあって
は貴重な体験だ。


すべての経験は外傷(トラウ
マ)である、とするならば、自我
はひとつの亀裂であって、世界
は私によって無数に擁われて
いる一谷神のタブローを一見し
て特徴とされるのは、そのモチ
ーフはさておいて、全体を履っ
ているクラッキングだろう。


 それはタブローを古めかしく
見せる氏の技巧のひとつであ
るが、なぜ氏はそのようなマチ
エールを欲するのであろうか。


 なに、私に臆断が許されるの
であるならば、氏はきわめて私
的すぎるタブローを範晦してい
るのだ(しかし私的すぎない作
品などあるのだろうか)。

 ともあれ、窃視とはつまり望
遠である(氏の絵はきわめて望
遠的である)。窃視とは光景へ
のフェティッシュである(氏の絵
はきわめてフェティッシュであ
る)。ならば、この作家は自分
の作品さえ遠く覗き見たいと云
うわけだ、クラッキングと云う記
憶の亀裂を通して、嘘の時間
の陰で。


 一谷神はその精神においても
実に技巧的なのである。


 聞けば、氏はその日常におい
てコンピュータに精通していると
云う。しかし、今となればその事
は怪しむに足りない。それもま
たタブロー同様、氏の失われた
逸楽の庭のひとつなのであろう
から−そこでも氏は充分にソフ
トを支配し、個人的な余りに個
人的な悦楽に耽っていることだ
ろう。


(たなか あきお/CMプランナー)

 

 

 

 

 

谷神健二展(奇妙な展覧会)
会場/青木画廊
会期/1990年4月9日(月)〜4月
211日(日)